お知らせ
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オリエンタルな日常
2011年12月08日先日、高梁に行った時のブログを書いたのですが
高梁に行った時に吹屋のふるさと村という看板が出ていたので行ってみることに
今取っている新聞の中で吹屋小学校の特集がされていて
一度どんなものか?見てみたいので行って参りました。結構くねくねした道を登りきった所に
吹屋のふるさと村なるものがありまして
独特のベンガラ調の家並みが続きましたので
駐車場に止めて歩くことに、日曜日もあって観光客の方もちらほらおられて
観光客の方に写真を取ってくださいーいと
声をかけられたりしながらカメラマンになりながら
ベンガラの街並みの坂を上って行くこと数分
すると吹屋小学校が見えました。
なかなか趣のある小学校ですな~
写真を取り忘れましたが
ベンガラの街並みの中にたたずんでいる姿は長い歴史を感じます世界には
街並みが個性的な色を表している所が数多くあります。インドのジャイプルという街並みは
ピンク色した街並みでピンクシティと別名で呼ばれているそうです。またジョードプルはブルーシティと呼ばれ
青色の色彩の多い町としても有名です。
どちらも近くまでは行きましたが行けませんでした。また他の色では白い町として有名なスペインのミハス
10年ほど前にバックパッカ―として貧乏旅行で行きましたが。
その当時は様々な広告の類が増えていて白い町ではあるのですが
白っぽい町というぐらいの感覚でした。また黄色い町は
メキシコやベトナムにあるそうです。
行ったことも見た事もありませんのであしからず色は人体にも影響があると考えられる事もあり
東洋思想の五行というものに5つの色を表しているものがあります。
それぞれの色がそれぞれ関係をもちあいながら
かつ体にも様々な影響を及ぼすとあるのです。この五行の中での色でない町の色があります
その色は何だと思いますか?それは黒色です。
黒色の町なんて?どうなのでしょう?
不吉な色ですが、すべてを包含する色でもありますし
すべての色が混ざり合うと黒になるみたいです。実際黒い町というのがあったとしても
決して行きたいところですよね。
でもこの真っ黒な黒色を使ったエンターテイメントならいいですけれどねダイヤログインザダーク
http://www.dialoginthedark.com/感覚を研ぎ澄ますということで
黒色とは違うかもしれませんが、
感覚を仕事の生業としている身からすると面白いですよね -
オリエンタルな日常
2011年12月05日昨日の朝
天気もあまりよくなかったでしたが 昼頃からだんだん晴れてきましたですので久しぶりに車で高梁市に行ってみました。
行った所は
朝霧温泉ゆらら
以前友人が働いていたこともあるし
今お越しいただいている方のお母さんが ゆららにある福祉施設を利用されているのでいってみることに
温泉施設も少しばかり改装して変わったみたいですが
外観はさほど変わらずそうして中に入ってみることに 中には以前にはなかった砂風呂がありました。
今年はじめに九州に行った時に
砂風呂がありましてそこで入りたかったのですが
入ることができず今回入ってみることにはじめは
あまり熱くないなと思っていたのですが 徐々にじんわりと体が熱くなってきます
浴衣みたいな服の上からもじっとりと汗を感じるぐらい汗が
15分もしたら出てきました。近くにいたスタッフのおじさんに聞くと
わざわざ
砂風呂を作るために砂を九州から運んでいるらしいし
また汗が砂にしみこんだものを綺麗にするために機械に入れるらしいのです
なかなか手が込んでいる感じで手入れが大変そう。砂の上に温熱用のパイプが走っているらしく
そのパイプで砂を温めているらしいです
ふーん なるほどなるほど入ってみた感触は以前オガクス風呂に入ったことがあるのですが
それとなんとなく入った後のほかぽかした感じが似ています 。
サウナや岩盤浴とはポカポカの持続が違うかもしれません。値段もさほど高くないのでまた入りに行きたいと思います。
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オリエンタルフォレストの考え方
2011年04月08日技術の到達点としては,
どこが極みなのかとふと考えてしまいました。
極みを模倣されるものとできないものとしてあるならばすばらしい技術というのはどこかで模倣されるものです。
体を健康にしていこうという取り組みの技術において
模倣されるものをあえて作り出しそれを模倣させてしまうというのも
あると思います.模倣されるものというのは数年前にはやった
骨盤関係の手技であったり
または加圧関係の手技であったりです。社会が必要とするようなシステムに作り上げる
体に必要な健康スタイルを維持したいという
いろんな意味で皆がハッピーになれるそんな模倣も必要です。
その模倣の奥には商業的な側面も備えているように感じざるを得ない場合さえあります。
それを端的に表現するなら確実な論理
といえるかもしれません。
模倣されるものも一つにアメーバのように広がっていくのであるならば
すばらしいことですし広がりを極めるということもあると思います。
それと対極してあるのが模倣できないものもあります。
個人の施術の深みです
これは個人個人の感覚的な要素によるものです同じ病気の人や病相の方を長くみているとなかなか
新たな発想や新たな治療方法によって改善させていこうと考えるのは
難しいことです
ですが四季の変化、環境の変化により様々な事柄が
見えない領域で変化していっています。それを考えてみる時にこそ凡人レベルが考えることのできる
施術の最高の極みがあるのではないかと思っているのですそれを端的に表現するならば
不確実性の勘
というものなのかもしれません。
確実なものではないですが
ふと湧いたように相手の必要なところにふっと触ることができる
感じ入ることができる
そういったものが施術において模倣できない
今の時点での極みなのではないかと思っています。それは無意識にすっとその人の深いところまで到達することができます。
それは
長い間に培われた考えの集積が相手の深さまですぐに到達する
と言う事なのかもしれませんし
親が子供の痛い処に言わなくても手が伸びるという感覚に似ているかもしれません。この感覚は模倣しようと思ってもできない領域だと思います。
この領域がある限り
人間対人間のサービスというのは
限りない可能性を秘めながらなくならないだろうと思っています。模倣されるものを作るというのも
人や社会を俯瞰しながらみて考えなければならず
客観的な裏ずけや科学的な根拠などが必要な場合があります模倣されないものも
時間のかかる作業だと思っています。
どちらの極みも極めてみたいと思っています。 -
オリエンタルフォレストの考え方
2010年12月03日凡人は
人の体を紐解く際に点で理解しようとする
俗に言うツボだ。凡人は努力すると線で理解できるようになる
俗に言うケイラクだ。
東洋医学の流れというか線だ
ただ問題はここからだ
名人は
人の体を紐解く際に面で理解しようとする
達人は
人の体を紐解く際に球で理解しようとする名人、達人の技を数々の書物で読んで感じるのには
それぞれがそれぞれの独自の面や球でとらえているということである。それは施術のみならず
武術をはじめとするさまざまな道の達人や名人にも相通じるものであるどの世界でも
基本がある上での
それぞれの独自のものがしっかりとある。
小さな積み重ね
それが時とともに自分の経験により変化していく
その変化は千差万別であり
同じなものはないただ学べるものは身近にあり
感じることができる
それができないのは自分の生への欲求が滞っているからだと感じることがある. -
オリエンタルフォレストの考え方
2010年07月24日いろんな方を見させていただいて
少し前ですがある方が
最近はいろんな方をじっと見てしまうのです。
と言われていました。
じっと見るというのは
相手もあることですから
目が合う可能性があるのです。
目があってしまうとどうしてもどちらかが目をそらすという行為をしなければいけなくなる。
でも相手をみると言うのは
本当はもっと違った見かたができるのではないかと思ってしまうのです見るというのは相手のその姿そのものの観察によるものですが
相手をゆっくりみるというのは
その方のバックグラウンドが分かるようにならなければいけないのではないかと思ってしまうのです。
分かってしまうと聞くことによるものが省略されるように思うのです。
やはり慣れ親しんだ人だと
その人の一挙手によって気分やその人の状況が分かるものですが
それがやはり慣れていない人だとどうしても
その感覚が鈍ることがあります。よくよく聞いていかないといけない
教えたくないこともあるでしょうし
自分の口からしゃべることが困難な方もおられるとでしょういろんな方がおられるものです。
ですので
やはり何もしゃべらなくてもわかる。
そういった感覚を大事にしたいと今ながらにして思います。自分がこれから老いていく過程における体の変化
これからの社会情勢において変わらなければいけない事柄も少なからず
出てくると思います
その時に
しゃべらなくても分かる感覚があるならなにも恐れることはないと思うのです
自分の体をうまく適合させていくことができたなら
またその順応能力があれば困らないでしょうが多くの人は困ってしまうと思うのです。いつだって素直な心と柔軟な思考を常に持ち合わせていきたいといつもながら思ってしまいます。
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オリエンタルフォレストの考え方
2010年04月29日様々な体を触れていくと
いろんな事を感じます。そのひとつに収縮と弛緩についてです。
収縮というのは、筋肉や骨の周りの関節が固くなり
ひとつに痛みを引き起こす原因となっているもののひとつとしましょう
すべて収縮が悪い場合ではなく
物事の対処する時のきばりであったり
何かをするにあたっての緊張の持続なんていうものは
収縮なくして意味がないものです。なにか期日までのしなければならない仕事であったり
納期がせまっている与えられた仕事かもしれませんが
収縮して緊張して行うことが一般的には求められています収縮もそれ自体を自分でコントロールできるのであればいいのですが
現代においてというか過去においても
そんなに人間は自分の体を眺めながら生活もできないものですし
私自身もできているといえばウソになると思います。
仙人のような生活をしているならば別なのでしょうけれども
その収縮というのは意味のあることなのです。ある有名なスポーツ選手は試合があるとわかっていると
その日に向かって努力するしそのことにだけ集中する
だからこそ体が痛い時、痛みなんてそんなこといっておられない
みたいなことをいっていた。
しかし一端集中力がきれてしまったり
試合が終わってしまうと緊張の糸が切れるのか痛みが出たりすることがあるらしい。
そんなことは誰にでもあることだと思っています。
スポーツ選手にかぎらずそんな収縮と弛緩を繰り返すことによって
様々なものの均衡が保たれているというのかもしれませんこれもまた昔
有名な施術家の方が
人間の体は宇宙だ!
みたいなことをしたり顔になっていっていたのをおもいだしますが・・・その当時は宇宙??
なんのこっちゃ
と思っていたけれども
このおっさん頭おかしくなったか?はては?
と思ったが人間の体を
東洋的な関連性
人間関係による関連性
住んでいるところという風水的な関連性
その人の関心事による関連性
などと一人の人をとってみても
壮大な世界が広がっているように思えるようになってきた時がありました。
この人の体は東洋的には脾と胃が弱く
そこをうまく調整すればうまくいくのではないか?
とでもうまくいかない場合があるのです
そんな場合には一つに周りの人間関係を考えてみるのです。
親兄弟との仲
いまつきあっている人との仲
そんないろんな取り巻いている中の均衡が崩れると
体に不調が出る場合もある。
また住んでいるところがとてつもなく
汚かったり、
私みたいに以前家の半分地下みたいになっているところに住んでいるときなんか
湿気や温度調節がとても難しいのです。だからかどうかわかりませんが
半分地下のところに住んでいる時には
よく風邪をひいていたのです。またその人の関心のある関連性
その人が今思っていること
今感じていること、などが表面的には笑顔なのですが
笑顔がゆがんでいる時があるのです。ゆがんでいても
その人の関心のあることに注意を向けると
体が変わってくることがあるのですそんなこんなと関連を考えてみても
大きくみていくと宇宙という言葉もまんざらでもなくなるし
違和感も少しなくなってくるのです。
宇宙という言葉は壮大な空想であったり想像であったりするのでは
ないかと思ってみるのです。現に宇宙にいった事がないので
現実味が帯びてくると個人的にはうれしいのですがそれは自分自身が様々なものを見たり
いろんな人種、職業、年齢にとらわれずに
会って話したり聞いたりすることによって
感じられる新たな感覚のひとつなのかもしれませんその宇宙何だという話にもどりますが
宇宙は膨張しているという意見が
(膨張と弛緩が同じとは思いませんがここでは同じと思って書いていきます。)今の天文学の中でも有力視されているみたいですが
膨張という弛緩現象のあとには必ずと言っていいほどの緊張
というか収縮も起こるのではないかと
そうなった時には
人間も体の変化があるのはないかと思ってしまうのですそう思ったときに
あ~人間の体が宇宙ってそういうことだったのか
とまではいかないにしろ
おぼろげながらの
人間の体=宇宙
ではなく
人間の体≒宇宙
ぐらいに感じられるのかもしれませんこの間もお越しになられた方が
ようやくリーマンショックから立ち直って
投資していたものが戻ったので一安心といっていたのですが
株式市場なんて上がる時も下がるときだってあるものだと思っています。ただ単なる投機目的のために
ギャンブルの一つとして株式投資をみるのではなくて
10年後、20年後にわたっても
世の中に残っていてほしいと思える企業、人に対して投資をするなら
嘆き悲しんだりうれしくなったりはしないものです自分がそこの会社に入ってでも仕事をしたいところ
そういったところを
インターネットで見つけれたらいいけれども
自分の目でその商品やそのサービスを見極めていくなら
そこに投資すべきなのではないかと思っています。でもなかなか目の前の一万円と10年後の一万円を同等ぐらいに考えれる人も
少ないものです
私自身が
有能なファンドマネージャーではないのであまり大きなことはいえませんが株式市場だって
収縮と弛緩の連続だとおもっています
力ある会社や国がうまく収縮と弛緩を繰り返しているだけのことなのです。体の話からおおきくそれてしまいましたが
緊張や弛緩はどうしてもあるものですその現象を個人で解決できない時に
いろんな人の力が必要になる
そのひとつにこの整体であったり鍼灸なのではないだろうか
と考えています。 -
オリエンタルフォレストの考え方
2010年02月11日食物があり
それを口に含み
かみ砕き
それが喉に通る
喉を超えていくと胃に落ち
胃から小腸大腸へと流れていく。
そして排泄される。変わらない流れがある。
この当たり前の一連の流れがくるってくるだけで
人は苦しみ人は痛くなる。物ごとには優先順位をつけたほうが解決しやすい
物事は整理整頓からといったことは昔から言われているし
本屋にもそういった本がたくさん並んでいるたしかに物の解決というのは
日本的な慣習の中で
周りの影響を考えた上で
ビジネスでの効率を考えた上での
優先順位であり
それはけっして正しいとか正しくないという優先順位ではない。人間生まれてこのかた
食べ物の経路がかわったことがない。小腸にあるものが
かみ砕くために出てきたり胃にあるものが
嘔吐は別として逆流して上がってくることはないからである。これは人間が誕生というかそういったところまでさかのぼっても
変えることのできない
優先順位というか流れだと思っています。
優先順位を作れば作るだけ自分のエゴが出やすくなるし
しかしそれは本当にそれだけでいいのかどうか
ということになる。優先順位があるから
仕事に没頭できる
ビールが美味しく飲めることもあると思うし
それが間違っているとか
それが正しくないというということではなくてただ優先順位をしなくても優先的に決まってくるものもあり
物事には生きる上での順番があるということです。
しいては
体にもよくなる順番があり
変わっていく順番がある。
ひとそれぞれ違ったものがある。その解明がどこまでできるか
自分の経験と照らし合わせて
古典と照らし合わせて
いかに分かりやすく人伝えたり
役立ててもらえたらいいのだろうかと
常に考えています。