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オリエンタルフォレストの考え方
2011年04月08日技術の到達点としては,
どこが極みなのかとふと考えてしまいました。
極みを模倣されるものとできないものとしてあるならばすばらしい技術というのはどこかで模倣されるものです。
体を健康にしていこうという取り組みの技術において
模倣されるものをあえて作り出しそれを模倣させてしまうというのも
あると思います.模倣されるものというのは数年前にはやった
骨盤関係の手技であったり
または加圧関係の手技であったりです。社会が必要とするようなシステムに作り上げる
体に必要な健康スタイルを維持したいという
いろんな意味で皆がハッピーになれるそんな模倣も必要です。
その模倣の奥には商業的な側面も備えているように感じざるを得ない場合さえあります。
それを端的に表現するなら確実な論理
といえるかもしれません。
模倣されるものも一つにアメーバのように広がっていくのであるならば
すばらしいことですし広がりを極めるということもあると思います。
それと対極してあるのが模倣できないものもあります。
個人の施術の深みです
これは個人個人の感覚的な要素によるものです同じ病気の人や病相の方を長くみているとなかなか
新たな発想や新たな治療方法によって改善させていこうと考えるのは
難しいことです
ですが四季の変化、環境の変化により様々な事柄が
見えない領域で変化していっています。それを考えてみる時にこそ凡人レベルが考えることのできる
施術の最高の極みがあるのではないかと思っているのですそれを端的に表現するならば
不確実性の勘
というものなのかもしれません。
確実なものではないですが
ふと湧いたように相手の必要なところにふっと触ることができる
感じ入ることができる
そういったものが施術において模倣できない
今の時点での極みなのではないかと思っています。それは無意識にすっとその人の深いところまで到達することができます。
それは
長い間に培われた考えの集積が相手の深さまですぐに到達する
と言う事なのかもしれませんし
親が子供の痛い処に言わなくても手が伸びるという感覚に似ているかもしれません。この感覚は模倣しようと思ってもできない領域だと思います。
この領域がある限り
人間対人間のサービスというのは
限りない可能性を秘めながらなくならないだろうと思っています。模倣されるものを作るというのも
人や社会を俯瞰しながらみて考えなければならず
客観的な裏ずけや科学的な根拠などが必要な場合があります模倣されないものも
時間のかかる作業だと思っています。
どちらの極みも極めてみたいと思っています。