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オリエンタルな日常
2012年06月04日最近の雑感 続き
長く同じような習慣を続けていると、
何が悪いのか自分でも本当に分からなくなる。
少し環境が変わったりするだけで、だだっと物ごとが雪崩の如く押し寄せてくる。
それは自分が元気で解決できるうちはさほどでもないが
それが自分でいろんな対処ができなくなると困ってしまう。
それは自分も含めて言えることです。僕自身も人を健康にするという職業についていきながら
大きな病を経験しました。
それは今、考えてみてもどこかに無理があったのだと思います。
それ以後、無理をしなくなりました。ようは体が発する声には忠実に従うようになりました。
発する声と言っても難しいですが・・・
雇われの身からすると考えられないかもしれませんが
休みたい時に休むようになりました。
仕事がしたくない時に無理をしてまで仕事をするという事をしなくなりました
その結果
開業してから、一日も休むことなく過ごす事が出来ました。
それがせめての自慢です。(笑)
雇われの身からするとどうしても
休む事に関して制約がありますし、誰かに迷惑がかかることがあります
雇われだと、決められた時間に拘束されることによって、
対価を得ているのですから仕方ないと言えば仕方ありません
そうすると、どうしてもひずみができてしまう。
休まないことが、会社のためにもなるし、みんなのためになる
と思ってみても、自分の体はそうそう会社やみんなに合わしていく事ができません。
大きな会社ならいざ知らず、小さな会社では一人一人が大きな存在のために
雇われている時は、休むという事が難しかったです。ただその雇われの身でも、思っていることがありました
自分はゆくゆく一人で仕事をするのだ
するとなぜかなにも苦痛とは少しも思わなかったものでした。
周りから見たら無理しているなあと感じられたかもしれませんが
それは自分には無理とは思わなかったのです。
よく知っている人から
伸ちゃんそんなに頑張らんでもええが~
と言われた事がありました。
本人は頑張っているつもりはないのです
ただ周りの人から見たら
頑張っているな~頑張り過ぎではないかと思われたのでしょう。だからかもしれませんが、昔から自分を叱咤激励する文章や人が好きでした。
リアルに人によって慰めてもらうよりかは
はるかに自分にとっては、本によって心慰められました。
寂しい性分なのかもしれません。
自分の気持ちが高まる文章や、ブログを読むだけで
自分もそのようになれるのではないのか?
と感化されやすいもので、元気が出てきたものでした。
ただいつの日か、そんな文章も読む事がなくなりました。その文章や、人に影響を受けたところで
今の現状を打破するのには、あまり作用すると感じなくなったからです
それは、今までの経験というストックが
何らかの形で微妙に作用しているのかもしれませんし
そうでないのかもしれません。
診させてもらっている方の疾患や、病名についてカタカタとインターネットで調べるよりかは
近くを散歩した方が、より効果が上がるように思えてきたのです。
散歩しながら、
ぽーと空気をゆっくりと吸ってみる。
花が咲いていないか見てみる。
そんな気分を変えてみると戻ってきた時に
俄然頭がすっきりし、物ごとがよりよく見えるような気がします。いろんな有名な本を書かれたり、弟子をたくさん持っておられる先生の話を、
聞く事も大切なのかもしれませんが
本来へそ曲がりで、あまのじゃくである自分にとっては、
あまり人が行くことがすくない由緒あるお寺に行くとか
発展するであろう国に行くほうが
新たな物がつかみとれるような気がするのです。
たぶんこれはみんなに納得のいく事柄ではないと思いますし
僕自身の特別な習慣と言うか癖だと思っていますのであまり参考にならないと思います。ただこの仕事は今をいかに紐解いていくかと言うのが求められる世界だと勝手に思っています。
患者さんやお客さんが今本当に何を欲しているのか
というのが分かりさえし
それに沿って施術を即席で組み立てていくのであるならば
まさに名人芸と言えるのだと思っています。しかしこのように文章にしたり言葉にしたりする事によって
もうこのやり方は古く、陳腐なものへと変貌していっているような気がします
今は決して言葉だけで表現できないものだと思っています。
その時を感じ取るということが重要であるといつもながら考えさせられます。